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No.69, No.68, No.67, No.66, No.65, No.64, No.637件]

学生時代、Wordに日記を書いていました。毎日というわけではなく、少し書いて間が空き、また久しぶりにファイルをひらいてキーボードを叩き始めると綴りたいことが次々に溢れ出して我ながら驚く。その繰り返しで、ときには半年以上も空いたあれを日記とは呼ばないのかもしれません。

大学三年くらいのころから、それまで予定を書くだけだったスケジュール帳に日記を書くスペースが加わり、食べたもの読んだ本などを記録している時期が見られます。こういうのはあとから読んで意外と面白くない。
かと思えば懐かしい固有名詞が出てきて、さらりとしたその登場の仕方に胸をつかれることもあります。住んでいる部屋で撮った写真をあとで見たとき、写したかった珍しい何かより、背景になにげなく映り込んでいる別の何かのほうに心を掴まれることがあるように。当時それはあたりまえに存在していて、撮るほどのこともなかった。その事実こそが、時を超えて胸を締めつけるのです。

何かを敢えて記録することは何かを捨て去ることであり、難しいものだと思います。私には2011年7月頃から長期にわたる手帳の空白が何よりも雄弁な記憶であります。回復に向かう世の中の流れとは裏腹に力尽きていった、私の中の「日常」の沈黙です。

呟き

井上ひさし「ナイン」#読了 し、今村夏子「木になった亜沙」を読み始めました。

井上ひさしを読むきっかけになった「握手」はやはり良い作品だったが、短篇集全体としては、悪い意味でいかにも昭和的な価値観が随所に滲み出ている。
それだけなら作品の価値を損なう欠陥にはなり得ないはずなのだが、昭和的な規範の内部においてのみ容認されていたであろう、誰かが耐え忍ぶことで成立していたハリボテの平和を作品の中心に持ってきて「ちょっと良い話」風に仕立てているのが鼻についてしまう。少なくとも私個人には、人間模様の表層しか描けていないという印象だった話が幾つか。
今は令和だが、昭和はまだ近すぎるのかもしれない。と、ひとまずは言っておくものの、今より時代が遠ざかったときに改めて普遍性を獲得するだけの力を備えた作品集とも思われない。

意味や用法を確認した言い回しのメモ。

「奇貨として」
奇貨とは珍しい宝物などのこと、転じて利用すれば思わぬ利益を得られそうな機会や事柄のこと。思いがけずちょっと珍しい機会に恵まれたのでこれをまんまと利用させてもらって、という感じでしょうか。

「縹渺(ひょうびょう)とした」
広く果てしない様、かすかではっきりしない様。

#語彙・表現

呟き

アガサ・クリスティ“Death on the Nile”を原作とする映画「ナイル殺人事件」を観ました。
同じ映像化シリーズの「オリエント急行殺人事件」も鑑賞済みで、第三作の「ベネチアの亡霊」が2023年に公開されているので機会があれば観るつもり。

日記

眼科に行きました。あまり体調がよくない。
もし目が見えなくなったら今とは全然違う形で読書を楽しむことになるのだろうなと思う。

日記

今日はかなり疲れました。必死に泳いでいたつもりが気づくと大きな波の中にいる。力を抜いて浮いていこう。

日記

早く寝なくてはと思うと目が冴えてしまう。眠りもあまり深くない、と思う。見た夢は起きてすぐ言語化すると記憶に現像される。

井上ひさしの短篇集「ナイン」を読んでいます。案外(でもないのか?)シモの話が多い感じ。変わりゆく下町の風景描写がとても興味深いです。

日記

X(旧Twitter)に戻る気がないわたくし、Bluesky、だいぶ居心地が良いです。
しかしパペログμ(てがろぐ)にBluesky、ブクログと何だか上手く使い分けができてないような。ブログも2つあるし。
ちょっと考えて整理したい。

呟き