カテゴリ「断片」に属する投稿[24件](2ページ目)
#Archive 投稿, 2021年6月25日
「書かれた最初の」
赤ん坊というその呼び名の通り真っ赤な皮膚、まだひらかない眼、母に抱かれている生まれたその日の姿が写真に残っていて、病院のベッドの枕元に貼られていた紙の実物と共にアルバムに収められている。
30年以上が過ぎて眺めるその紙には、母の名と、その子である旨と、祝福の言葉が記されている。おめでとうございます、それは私に対するものではまだなかったと思う。
言葉がわかるようになるころ、「誕生日」を意味が追いかけてきて、やがて追いぬいていった。
「書かれた最初の」
赤ん坊というその呼び名の通り真っ赤な皮膚、まだひらかない眼、母に抱かれている生まれたその日の姿が写真に残っていて、病院のベッドの枕元に貼られていた紙の実物と共にアルバムに収められている。
30年以上が過ぎて眺めるその紙には、母の名と、その子である旨と、祝福の言葉が記されている。おめでとうございます、それは私に対するものではまだなかったと思う。
言葉がわかるようになるころ、「誕生日」を意味が追いかけてきて、やがて追いぬいていった。
#夢日記 20250605
食べ放題のコーナーがあるどこかにいる。料理を皿にたくさんとるが、デザートコーナーのケーキなどは食べ尽くされてしまっている。
私は少女または少年である。気さくな男が、目の周りに赤の、頬に青いドーランのようなものを塗っている。何をしているのか問うと、別に、とか、気にしなくていい、とかそんなようなことを言う。
男は人外の存在で、戦乱の神のようなものである。私を痛めつけた何かとの戦いに赴くつもりらしい。普段は飄々として穏やかな優男だが、今は空気をビリビリ震わせるような凄まじい怒りのオーラを感じる。私はすっかり焦って、そんなことをしなくていいと言う。戦化粧を終えた男は慈しむようなまなざしで私を見ている。
私は男をこの場に引き止めようとする。皿に盛ってきた料理を食べ始めるが味はしない。徐々に満腹感だけを感じ始める。食べきれないかもしれないな、と思う。男が見守っている。優しい空気。少し怖いと思う。男の関心が戦いではなく今ここに戻ってきたようだと私は安堵するが、男の怒りは消えていない。神の圧倒的な力が私を守るように周辺で渦を巻いている。
不意に私は男の腕に身を委ねたいような気持ちになる。男は運命のような、死神のような、戦勝の神のような、大きな存在である。それに身を委ねることには、諦めに似た心地よさがある。全てを諦めた私を二本の力強い腕が抱きとめる。この男はずっと私に執着していたのだと私は悟る。恐怖心を諦念が慰撫してゆく。
食べ放題のコーナーがあるどこかにいる。料理を皿にたくさんとるが、デザートコーナーのケーキなどは食べ尽くされてしまっている。
私は少女または少年である。気さくな男が、目の周りに赤の、頬に青いドーランのようなものを塗っている。何をしているのか問うと、別に、とか、気にしなくていい、とかそんなようなことを言う。
男は人外の存在で、戦乱の神のようなものである。私を痛めつけた何かとの戦いに赴くつもりらしい。普段は飄々として穏やかな優男だが、今は空気をビリビリ震わせるような凄まじい怒りのオーラを感じる。私はすっかり焦って、そんなことをしなくていいと言う。戦化粧を終えた男は慈しむようなまなざしで私を見ている。
私は男をこの場に引き止めようとする。皿に盛ってきた料理を食べ始めるが味はしない。徐々に満腹感だけを感じ始める。食べきれないかもしれないな、と思う。男が見守っている。優しい空気。少し怖いと思う。男の関心が戦いではなく今ここに戻ってきたようだと私は安堵するが、男の怒りは消えていない。神の圧倒的な力が私を守るように周辺で渦を巻いている。
不意に私は男の腕に身を委ねたいような気持ちになる。男は運命のような、死神のような、戦勝の神のような、大きな存在である。それに身を委ねることには、諦めに似た心地よさがある。全てを諦めた私を二本の力強い腕が抱きとめる。この男はずっと私に執着していたのだと私は悟る。恐怖心を諦念が慰撫してゆく。
ああ今年も冷えたグラスの中で、夏がからんころん笑います。
おまえは熱波が産みおとした偶然の獣、だから生きていていいのだと。
おまえは熱波が産みおとした偶然の獣、だから生きていていいのだと。
明るく静かな森の奥、少しばかりひらけた場所へ木製の長テーブルを置いた。
レース編みのクロス、海外で買ってきたテーブルランナー、子どものころ家にあったランチョンマットに、不器用な指で編んだら台形になってしまった毛糸の鍋敷き。
さまざまな布で天板を、木漏れ日を吸ってあたたかく分厚い天板を覆ったら、次にはところ狭しと食器を並べた。気に入りのマグ、ガラス製のデザートボウル、割れてしまった茶碗の片割れ、貰い物のグラスにスープ鉢、サラダの大皿、祭りの景品だった金魚鉢。
数はひとつだったり、対になっていたり、四人分であったりした。容れるものは決まっていなかったがありったけ並べた。
今日は結婚式なのだ。私と、まだ名前も知らない誰かの。
並べられた椅子のひとつ、静寂に腰を下ろして私は暫しまどろんだ。
高い梢から花冠が舞い降りて、ひんやりと優しい指のように額へかかった。待つことは苦痛でなかった。むしろ幸福といってもよかった、それによって定義することが許されるならば。
レース編みのクロス、海外で買ってきたテーブルランナー、子どものころ家にあったランチョンマットに、不器用な指で編んだら台形になってしまった毛糸の鍋敷き。
さまざまな布で天板を、木漏れ日を吸ってあたたかく分厚い天板を覆ったら、次にはところ狭しと食器を並べた。気に入りのマグ、ガラス製のデザートボウル、割れてしまった茶碗の片割れ、貰い物のグラスにスープ鉢、サラダの大皿、祭りの景品だった金魚鉢。
数はひとつだったり、対になっていたり、四人分であったりした。容れるものは決まっていなかったがありったけ並べた。
今日は結婚式なのだ。私と、まだ名前も知らない誰かの。
並べられた椅子のひとつ、静寂に腰を下ろして私は暫しまどろんだ。
高い梢から花冠が舞い降りて、ひんやりと優しい指のように額へかかった。待つことは苦痛でなかった。むしろ幸福といってもよかった、それによって定義することが許されるならば。
幸運 #詩
冷たい汗に目醒めて
こみあげる胆汁の床へ手をつく
むくんだ春の朝
無痛に痺れた日差しの底で
清涼な液体の管が私を繋留している
キャスターつきの点滴台ではなく
いまにも
窓の外へ揺れはじめるべき夏の影へと
冷たい汗に目醒めて
こみあげる胆汁の床へ手をつく
むくんだ春の朝
無痛に痺れた日差しの底で
清涼な液体の管が私を繋留している
キャスターつきの点滴台ではなく
いまにも
窓の外へ揺れはじめるべき夏の影へと
車窓から #詩
あおい光が夜の奥をよぎる
ひとつ
息をする間に
またひとつ
かつて私を呼びとめたもの
朝に枯れる花のように
早くも希望の残り香を立てている
夜に属する光
人工の。
今でも私は
どうしようもなく置いてくる
ガラスを曇らす雨滴と
もはや見分けのつかぬひと雫を
闇の彼方にまたたく
踏切のあおい光のもとへ
あおい光が夜の奥をよぎる
ひとつ
息をする間に
またひとつ
かつて私を呼びとめたもの
朝に枯れる花のように
早くも希望の残り香を立てている
夜に属する光
人工の。
今でも私は
どうしようもなく置いてくる
ガラスを曇らす雨滴と
もはや見分けのつかぬひと雫を
闇の彼方にまたたく
踏切のあおい光のもとへ
眠り #詩
太陽光発電のパネルと
キャベツ畑で大地を覆って
わたくしたちは眠りにつきます
暗く涼しい土の中で
目を閉じて横たわって
また起きられたらいいけれど
わからないから手を繋いで
誰も住まない団地のベランダ
洗濯物がはためいています
電車は律儀に基地へと帰り
最後の水で洗われました
わたくしたちがつくったもの
愛したもの
のこしたかったもの
かいた地図
わたしにだけ朝が来てしまったらどうしよう
土から這い出て、真っ暗闇に
弱った手足でベランダへよじ登り
誰かのバスタオルで体をつつんで
裸足にキャベツ畑の土を踏む
確かな冷たさを指先に見つけ
外葉の夜露に喉を鳴らして
ひと息ついて思うでしょうか
とても、とても静かだと
その日を思ってわたしはさびしいのです
眠りにつく前からはやくも
まぶたを夜露が濡らすほど
太陽光発電のパネルと
キャベツ畑で大地を覆って
わたくしたちは眠りにつきます
暗く涼しい土の中で
目を閉じて横たわって
また起きられたらいいけれど
わからないから手を繋いで
誰も住まない団地のベランダ
洗濯物がはためいています
電車は律儀に基地へと帰り
最後の水で洗われました
わたくしたちがつくったもの
愛したもの
のこしたかったもの
かいた地図
わたしにだけ朝が来てしまったらどうしよう
土から這い出て、真っ暗闇に
弱った手足でベランダへよじ登り
誰かのバスタオルで体をつつんで
裸足にキャベツ畑の土を踏む
確かな冷たさを指先に見つけ
外葉の夜露に喉を鳴らして
ひと息ついて思うでしょうか
とても、とても静かだと
その日を思ってわたしはさびしいのです
眠りにつく前からはやくも
まぶたを夜露が濡らすほど
encouragement #詩
死者は毎朝あたらしく生まれる
陽気な鳥のようにさえずりながら
私の朝を飛び回る
さあ湯を沸かせ、コーヒーを淹れろ
ねむたい眼をこすって
ほら、始まりは大概ひどいものさ
昼のあいだ死者は戸口に立って
遠い街並みに目をみはっている
ときおり振り向くのは、ふと愉快になったからだ
あのときは実におもしろかったな
そう思わないか? 忘れてしまったのか?
ひかる小石を集めたじゃないか?
夜更け、白い花々に埋もれながら
死者の青ざめたくちびるが
影の天井につづる歌へ、さあ耳をすまし
水底の響きに弱々しい鼓動を横たえて
眠れ、
不安な夢からさめた幼子のように
かわいた眼をふたたび涙でいっぱいにして。
死者は毎朝あたらしく生まれる
陽気な鳥のようにさえずりながら
私の朝を飛び回る
さあ湯を沸かせ、コーヒーを淹れろ
ねむたい眼をこすって
ほら、始まりは大概ひどいものさ
昼のあいだ死者は戸口に立って
遠い街並みに目をみはっている
ときおり振り向くのは、ふと愉快になったからだ
あのときは実におもしろかったな
そう思わないか? 忘れてしまったのか?
ひかる小石を集めたじゃないか?
夜更け、白い花々に埋もれながら
死者の青ざめたくちびるが
影の天井につづる歌へ、さあ耳をすまし
水底の響きに弱々しい鼓動を横たえて
眠れ、
不安な夢からさめた幼子のように
かわいた眼をふたたび涙でいっぱいにして。
#掌編 「奇妙な友」
土曜日に呼び鈴が鳴ったとき、私はすぐさま紅茶のカップを置くと、期待に胸をふくらませて立ちあがった。配達人が来たものと思ったのだ。数日前の仕事帰り、何の気なしに立ち寄った古書肆で私はある本を見つけ、自宅への配送を頼んでおいたのである。それは実に素晴らしい書物だと本好きのあいだではもっぱらの噂だったが、一方で大変な稀覯本でもあった。見つけることができたのは幸運だったというべきだろう。さて、奥の棚へ無造作に置いてあるのを見た瞬間に私は手を伸ばしていたが、引っぱりだしたその本は咄嗟に両腕で支えねばならないほど重かった。全ページが金属板でできているのかと思ったほどだ。おまけに、表紙はどれほど力を入れても開かなかった。悪戦苦闘している私の背後へ店主が来て、買わないなら置いてどこかへ行くようにとそっけなく言った。さらには、近くへ別の客が立っており、そわそわした様子で私の手にある本を窺っているではないか。それで私は、値段を確かめもせずに慌ただしく購入の意思を告げ、といっても持ち運びに耐えぬほど重かったので、配送を頼んで帰ってきたのである。
ドアを開けてみるとしかし、訪れたのは配達人ではなかった。仕立ての良い三つ揃いを着こんだ紳士が、勝手に門扉を開けてドアの真ん前まで入りこんでおり、私を見ると親しげに片手を挙げて挨拶するのである。そして、あっけにとられた私が何か尋ねるいとまもなく、家の中へ上がりこんでくるではないか。勝手知ったる様子で居間へと進んでゆく相手の背を、私は慌てて追った。
「砂糖は結構」とその人物は、卓上に放置されていた私のティーカップを指して言った。大急ぎで紅茶を淹れ、ミルクピッチャーを添えて運んでゆくと、彼は私の猫を膝に乗せて撫でているところだった。猫は喉を鳴らしていた。
カップを受けとると、彼は実に礼儀正しく礼を言い、ミルクを入れてかきまわした。そのあいだに私の猫はのっそりと相手の膝から下り、いつもの窓辺へ行って寝転んだ。
「失礼ですが」とやっとのことで私は言った。「どこかでお会いしたことが?」
面識のない相手に家へ上がりこまれたばかりか、相手のペースにのせられてとっておきのダージリンまでふるまっていたことに今更ながら私は愕然とし、憤りを感じはじめていた。
ところが、相手はあくまで愛想良く、悪びれもせずこう言った。「私は君の友人ではありませんか、ねえ?」
私は相手の顔を見つめた。見つめたところで、依然知らない人間である。しかし穏やかな微笑をたたえて私の方を見ている。紅茶を一口飲み、香りを褒め、茶葉を選んだ私のセンスを褒める。初対面にもかかわらず、気難しい猫も懐いている。友人。どうもそうであったかもしれないという気がしはじめた。
そこで私は自分にも新しく紅茶を淹れてきて、彼の向かいに腰を下ろした。猫が私の膝と彼の膝を行き来しながら喉を鳴らす。私たちは午後いっぱい、とりとめもない話をしながら過ごした。何を語らったのかは、彼が紅茶の礼を言って辞去した夕暮れ時にはもう思いだせなかった。だが、陽ざしに包まれ、幸福な午後であったことは間違いない。
そんなわけで日曜日、再び呼び鈴が鳴ったとき、私はますます期待に胸をふくらませて立ちあがった。頼んでいた本が届いたのかもしれないし、友人がまた来てくれたのかもしれない。
ドアを開けると、果たせるかな、昨日の人物が立っていた。ジーンズにトレーナーというラフな格好で、昨日はきっちり撫でつけられていた髪も額へ落ちかかっていた。彼は紙袋を小脇に抱えており、私の顔を見るとにっこりした。私も胸を弾ませて、友人を居間へと招き入れた。
さっそく紅茶を淹れにゆこうとする私を彼はおしとどめ、自分の向かいに腰かけるよう勧めた。「君の欲しがっていたものを持ってきたんだよ!」と嬉しそうに彼は言った。贈り物を私が気に入ると確信した口調だった。それで私は一瞬、古書肆に配送を頼んでおいた本を、どういうわけかこの友人が預かってきたのだろうかと思ったのである。しかし、彼が紙袋から取りだしたのは当然ながら、例の本ではなかった。それどころか、今までに私が欲しいと思ったことなど一度もないような、奇妙な物体であった。私は曖昧に礼を言いながら受けとった。置物らしかった。礼儀上、贈り物の美点をいくつか挙げる必要があると考えた私は微笑を浮かべてその物体を眺めたが、褒める言葉がまったく思いつかないのである。置物はよどんだ黄土色で、カバになりかけのじゃがいものような形をしており、手触りも悪い。重さが中途半端なので文鎮にすらならなさそうだ。その上、なんだか嫌なにおいがする。しかし顔を上げると、友人は私の反応に期待して満面の笑みを浮かべているのである。「大切にします」仕方なくそう言うと、友人は嬉しそうに何度も頷いた。私は置物が意味もなく大きいことに気づき、どこに保管しようか頭を悩ませはじめていた。
月曜日、私は朝から微熱があった。呼び鈴が鳴ったとき、それでもどうにかベッドから起きあがってドアを開けに行ったのは、とうとう本が届いたかもしれないと考えたためだ。配達人ではなかった。むさ苦しい格好の、全身から悪臭を漂わせた人物が立っていた。「やあ」と私の顔を見るなり相手はほほ笑んだ。そこで私は困惑しつつも、随分と様変わりしてしまった友人を居間へ招き入れた。
居間の中央に仁王立ちした友人は、意地悪げに片眼をすがめて部屋の中を見まわしていた。私は、もらった置物を飾っていないことを思いだし、相手が気を悪くする前にと急いで声をかけた。「何か召し上がりませんか。お茶を淹れますよ」すると、彼はどこか横柄な印象を与える足取りで近づいてきて、食卓についた。ぼろぼろに裂けて垢の浮いた上着からナイフとフォークを取りだし、両手に構えて私を見た。私は、自分に微熱があるのを思いだしながら、皿に盛った軽食と紅茶のカップを用意し、運んでいった。彼はナイフの先でチーズやフルーツを突き刺して口に運び、一息で紅茶を飲み干し、また意地悪げな眼で私を睨んだ。私はキッチンへ引き返し、アフタヌーンティーのために用意してあったスコーンを温めた。ジャムとクロテッドクリームを添えて運んでゆくと、友人は私が背を向けて紅茶を淹れているあいだにそれらを食べ終え、振り向いたときにはテーブルクロスで口を拭いていた。母が刺繍をしたクロスである。唖然としている私の手からカップを奪うと、友人はまた一息にそれを飲み干し、ナイフとフォークを持ってじろりと私を見た。そこで私は足早にキッチンへ引き返し、震える手でベーコンを焼き、卵三つの目玉焼きを作り、胡桃のパンと干しぶどうと牛乳と共に持っていった。友人は私の手からそれらをひったくり、まとめてひと呑みにすると、あざ笑うような顔で私を見た。私はキッチンへ駆け戻り、冷蔵庫から取りだした全ての肉と魚を焼き、野菜を蒸し、果物を切って食卓へ運んだ。合間に黒ビールの壜を十八本と赤ワイン七本、白ワイン八本、タバスコ三本を運んだ。それから冷たいチキン、瓶詰めのオリーブ、オイルサーディンの缶、乾燥ラズベリー、マッシュルーム、バター、胡椒、製菓用ブランデーなど手当たり次第に運んでいったが、友人はつまらなさそうな顔をしながらそれらをことごとく平らげ、垢と無精髭に覆われた顔の中からぎらぎらと眼を光らせて私を睨んだ。とうとう食料庫が空になったとき、私は倒れそうになりながら友人の前へ出てゆき、振る舞うことのできるものがもうないということを告げた。すると友人は立ちあがってナイフとフォークをしまった。やっと帰ってくれるのかと胸をなで下ろしかけたとき、彼はやにわに居間のカーテンをひっつかんだ。そこから先はあっという間で、何より私は熱があったのであり、何が何だか後になってみるとよく思いだせないのだ。しかし、順番は定かでないが、友人は力任せにカーテンレールをもぎとり、ソファを引き裂いて詰め物を飛びださせ、絨毯を丸めて窓から放りだし、家中のガラスをたたき割った。少なくともグラス七個、皿三十一枚、花瓶一つ、空き瓶四十七本を割り、額縁を階段から投げ落とし、あらゆる棚の抽斗を抜いて中身を床へぶちまけ、記念の写真立てを壁に投げつけ、グランドピアノの上でとびはねた。表彰状や楯がテレビの画面に突き刺さり、カセットテープや手紙やアルバムがコンロの上で色とりどりの煙を上げた。どうすることもできないまま、床に横たわって友人の所業を見ているうち、熱が上がってきたのが感じられた。そして私は、割れたガラス窓から風が吹きこむ居間の中心で、気を失うように眠りこんでしまったのである。
目覚めたとき、朝の光がさしこむ家の中に友人の姿はなかった。どこに隠れていたのか、猫がのっそりと姿を現した。大急ぎでガラスの破片を掃きだしたあと、私は猫を膝に抱えてしばし呆然としていた。午後になってやっと気を取りなおすと、何本かの電話をかけて、窓ガラスの修繕やどうにもならない家具の引き取りを手配した。火曜日まる一日を、私は荒れ果てた家の修復に費やした。配達人も友人も来なかった。水曜日、新しいカーテンとソファが届き、ピアノの調律が終わり、食器棚には買いなおした皿やグラスが並んだ。だが、燃やされてしまった手紙や写真はどうにもならなかった。気がついてみると、母が手仕事で刺繍をしたテーブルクロスにも、忌々しい友人が貪欲な口を拭いたしみがはっきりと残されていた。私は父に電話をかけた。落ち着きなさい、と父は穏やかに言った。母さんはそんなことで腹を立てたりはしないよ。おまえがあのテーブルクロスを大切にしていたことはよくわかっていたはずだからね。
木曜日、呼び鈴はやはり鳴らなかった。夜更けから猫がぐったりとしはじめ、金曜の明け方に死んだ。小さな骨壺を抱えて帰ってきてから、私はふとあの置物のことを思いだし、取りだして眺めた。相変わらずつまらない色と形をし、何の役にも立たず、悪臭を放っていた。庭土めがけて贈り物を投げつけ、私は鎧戸を閉ざした。
土曜日、父が亡くなった。朝から曇り空だった。納棺を済ませるころ雨が降りだした。私ひとりの通夜を抱きすくめるように雨は降りつづいた。日曜、火葬場から上がる細い煙を私は傘をさして眺めていた。家に帰りついても雨は止むことがなく、鎧戸の隙間や屋根からつたいこんであらゆる家具を水びたしにした。配達人も友人も現れなかった。それからずっと雨は降りつづいた。
ある日、まどろみからさめると、友人が笑顔で覗きこんでいた。寝台の傍らに椅子を持ってきて腰かけているのだ。私は顔をしかめた。うつらうつらとまばたきをしながら、引っ越したというのになぜ私の居場所がわかったのだろうかと考えていた。「帰ってくれ」重い口を開いて私は言った。「君の顔など見たくないのでね」
だが、友人は相変わらずほほ笑んだままで私を苛立たせた。
「君にもらった変な置物は捨てたよ」そっけなく私は言った。「よく考えたら君は私の友人なんかじゃなかった」とも言った。
寝返りを打った私は眼を見ひらいた。椅子に座っている彼の膝の上に、柔らかな毛のかたまりを見出したからであった。震える声で私はその名を呼んだ。三角形の耳が動き、猫が顔を上げて私を見た。
寝台に手をついて起きあがったとき、私は友人の傍らに佇む人物に気づいた。気に入りのチョッキを着た父であった。よく知った穏やかな表情で私を見ていた。父の隣には母の姿もあった。両親は手を取りあい、ほほ笑んで私の方を見ていた。私は立ちあがり、よろめきながら近づいていった。両親の後ろには学生時代からの友人が、親戚が、大好きだった飼い犬がいた。あっという間に私はなじみの顔に囲まれて立っていた。
「君が連れてきてくれたのか」友人の方へ向き直り、声を上ずらせながら私は尋ねた。「私に会わせるために?」
相手は何も言わずにほほ笑んでいるだけだった。「ありがとう」私は友人の首にかじりつき、肩を震わせて泣いた。「本当にありがとう。君はまちがいなく私の友人だ……」
「さあ、行こう」やがて、友人は静かにそう言った。
愛する者たちに囲まれて部屋を出てゆくとき、私の耳は空にとどろく音を聞いた。巨大な本が閉じられるような音であった。畳む